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第15章 幸福論

 この章では人生の幸福と苦しみにつて考えてみたいと思います。苦しみの感情とは何でしょうか、この鈍く重たい感覚を覚えますと強い不安感や、時には恐怖感さえ感じるようになってきます。この不安感や恐怖感を克服することがきっかけとなって、人は様々な行動を選択することになるわけです。例えば病気の苦しみを克服するために過去から現在に至るまで人々は様々な努力を傾け、多くの成果を上げてきました。同様、多くの人間活動は様々な苦難や困難、不自由を克服することが動機となって始まるようにみえます。そう考えますと苦難は文明の母とも言えてくるのかもしれません。    苦難に遭遇した時にその人の本当の価値が分かると言いますが、その言葉は真実を表していると思います。その苦難にどう向き合えるかどうかで、その人の心の豊かさとか意識レベルの高さが明らかになってくるからです。人は苦しみの感情が持てるからこそ、心の豊かさと文明の豊かさを享受できる機会が約束されている存在であるのかもしれません。苦しみの感情があるお陰で幸福とは何か、愛とは何か、美とは何かを実感できるとともに創造がもたらす豊かさが何であるかも理解できてくるのではないでしょうか。苦難がなければ真実の豊かさを手に入れることはますます遠くなると思います。    苦難にともなう苦しみの感情とは各々の主観から生ずるものであり、花や草木のように一つの客観的事実として存在するものではなく純粋に意識上の出来事としてあるわけですが、故に何が苦しみで何が苦しみでないかの判断は一人一人の主観によることになってきます。つまり苦難とはあくまで心の中の主観的事実として存在するわけです。人は誰でも過去の幸福体験がもととなって心の中に自分なりの幸福観を持てていることと思います。この幸福観から遠ざかった感覚が苦しみを初め悲しみ、孤独感など様々な否定的感情になるのではないかと思います。更に豊かな人生体験を積む機会が得られれば、自分の持っている幸福感の幅と深さを拡大することができることと思います。その分、否定的感情に陥るようなことも少なくなってくるのではないでしょうか。    心を豊かにするとは、即ち意識を広く深くすることを意味してきます。つまり認識という心の視界を広げてゆくことが心を豊かにしてゆくことにつながってくるわけです。心の豊かな人は例え自分が不遇な

第14章 慈悲と慈愛 崇高な自己の発見

 この章では慈悲と慈愛について考えてゆきたいと思います。慈悲慈愛の慈とは友情を意味します。慈悲を他の言葉で表現すれば同情にあたります。それは自分と他の存在(自他)との間の境界を超えて相手の悲しみや無念の思いに共感できた時に湧いてくる意志のことだと思います。自他の境界を超えてとは、人と人との関係だけでなく、動物から花や草木などおよそ命あるもの全て、それだけでなく大地から大気にいたるまであらゆる対象を差別なく扱うことを意味します。    私たち人はこの現実世界に生きながら心の中の主観世界に生きる存在です。主観世界と呼ばれる心象風景に写る景色、そこには人も動物も花も草木も自然風景も存在します。その心象風景に彩りを添えるのが感情です。散りゆく桜の花に切なさを覚え、切り倒された故郷の森に言葉にはならない無念の感情を覚えるのが私たち人という存在です。その無念の感情から湧いてくる意志が慈悲のことだと思います。心の中に写る景色は私たちの心そのものです。言い換えれば自己そのものです。そこに最早、自他の差別はありません。心象風景の中では、この私が桜の花であり、故郷の美しい森であるのです。例えれば心は鏡のようなものだと思います。その鏡に磨きをかければ、真実が明瞭に映し出されてきます。その映し出された真実が慈悲を呼び覚ますわけです。    慈愛は愛するという行為そのもの。苦しむ者に希望という光を与える。道に迷いし者に導きを与える。保護を必要とする者に守護と生きる糧を与える。ただ与えるだけの行為のことです。慈悲と慈愛は愛という感情が意志と行為というかたちで現れたものだと思います。また愛が幸福と深く関わる感情であるとすれば、幸福とは調和そのものであると思いますので、愛は調和と深く関わる感情であると言えてくるわけです。    しかし感情とは何なのでしょうか。他の言葉に置き換えるとすれば律動(リズム)が最も適当なように思われます。私たち人は音楽に同調して感情を左右させます。音楽には心を静めるもの、躍動感を与えるもの、切なさを感じさせるもの、神秘的感情を呼び起こさせるものなど様々ですが、そしてこのことから音楽表現が感情表現そのものであることに気がつきます。感情とは生命そのものなのかもしれません。最も精妙で協和的な律動が幸福と呼ばれる感情であり、そして愛とか美と呼ばれる感情も同じものを意味

第13章 神秘世界

神秘世界について考える(その1)  神秘世界とは、具体的には人の認識を超えた世界、人智の及ばない世界と理解すればよいと思います。それが現在の科学技術レベルでは到達不可能な世界を意味しているのであれば、神秘世界も現実世界の一部であることには変わりなく、神秘か現実かはあくまで人の主観の問題になると思います。つまり心の中の印象、その印象にともなう感情の問題になるわけです。「神秘」という言葉は本来、感情表現そのものであると思います。「不思議」、「感動」、「畏怖」などこれらの印象にともなう感情の総体が神秘という言葉になるわけで、特に畏怖感情は宗教信仰の主たる動機となり、感情面において宗教がよって立つところの礎となるものだと思います。    ここで神秘世界と呼んでいる対象はいまだ未踏の真理がある領域のことであると解釈すればよいと思います。はたして、私たち人が現在、神秘であると認識する領域の全てが遠い未来、科学の力により明らかにされる日が来るのでしょうか。それは不可能なように思えます。何故なら、科学は観察する対象の全てを言語、あるいは数式を用いて記述することで成立するものだからです。神秘世界とはこの現実世界と同様、言語や数式だけでは表現不可能なものも広く含むはずですから、科学の力のみでは解明することはできないと思います。 例えば芸術の領域である音楽や美術を言語や数式に置き換えることができるでしょうか、不可能であるとともに全く無意味と言えましょう。人の感情や感覚もしかりです。人の心自体も言語で記述するには限界があると思います。何故なら、その心の働きが言語では表現不可能な感情や感覚そのものであり、芸術を創造する働きそのものであるからです。    宗教も同じことが言えます。宗教は知的方面では哲学によるところが大きいと思いますが、それだけでは宗教とは呼べません。やはり畏怖感情をともなう神秘体験などに象徴される心理的方面がとても大事になってくるはずです。科学がよって立つところの知性とは言語を用いることにより、観察する対象を分別し記憶する心の働きのことです。具体的に言えば対象を観察し分析し評価したうえで知識として記憶する働きをするわけです。そうであれば言語で表現不可能な領域は科学の対象にはなり得ないことがわかります。    これまで述べさせていただいたことから、神秘世界にある

第12章 自然界の進化原理

 自然界をよく観察してみますと自然現象とは何らかの平衡の破れ(バランスの崩れ)が原因となって生じていることが理解できます。例えば、水は高きから低きに流れると言いますし、風とは気圧の高い大気から低い大気への空気の流れそのものです。平衡とはバランスのことですが、このバランスが崩れたところに様々な現象が表ずるわけです。自然現象とは宇宙から生命、そして私たち人の意識まで全てを含むと理解して良いと思いますので、当然これらは平衡作用の支配を受けていることになります。 宇宙誕生(ビッグバン)は何らかの平衡の破れが原因となっていると思います。宇宙はけっして無からたまたま偶然に誕生したものではないはずです。宇宙空間の拡大も平衡作用そのものだと思います。つまり何らかのバランス、平衡状態が実現するまでこの宇宙は拡大し続けることになるわけです。    人類がここまで進化した背景にも平衡作用が働いていると思います。つまり進化とはバランス作用そのものであるということになります。バランス作用とは調和に向かう統一作用と理解すればよいと思いますので、進化しているものほど調和に近づいていることになります。外観上、人と類人猿の身体を比較してみましても、明らかに人体の方が洗練されていることがわかります。人の意識もしかりです。自己実現とは個性の充実、つまり高い意識レベル(認識レベル)を実現することを意味しますが、これも進化そのものであると言って良いと思います。調和ある人格とは意識レベルの高さ、つまり心の豊かさの指標となるべきものです。    人が花を見て美しいと感じることができるのも、そこにある種の調和を実感しているからだと思います。人が幸福を実感できるのも、幸福が調和そのものであるからではないでしょうか。然るに幸福を求めることとは調和を求めることと同じになります。私たちの人生が自然界と同様、平衡作用の支配を受けているということであれば、人が幸福に求めることとは摂理そのものであると言って良いと思います。つまり人は幸福になるべき存在であると言うことになります。そこに人が人として存在する故の真理があるようにも見えてきます。 不完全で調和に遠い人格ほど、調和への道程は長くなります。私たち人はこれまでの生活体験からその道程がけっして容易なものでないことを良く理解していることと思います。時には強い意志と忍耐を

第11章 宗教と科学

 宗教も科学も、私たち人の精神活動の所産です。花や草木などの自然物のように人と関係なく存在できるものではありません。手で触ることも直に見ることもできません。純粋に意識上の産物だからです。宗教建築も儀式も宗教感情を目に見える形で表現したものですが、宗教そのものではありません。教典もしかりです。その宗教が唱えている教えを文字で表現したものに過ぎません。 科学について言及すれば、その研究成果とされている様々なデーターベースは文字、図表、画像、数式の集まりで、それ以上のものではありません。科学は私たち人の脳の中に実在するものであり、データーベースはあくまでも情報の蓄積と伝達の手段に過ぎません。    精神活動とは意識の働き、つまり心の働きそのものであると解釈すればよいと思います。一般には宗教と科学とは互いに対立する関係にあるとみられているようですが、同じ人の心という幹から育った枝葉であることが分かれば、その様な見方は偏見であることが理解できるところです。同じ幹から育ったのであれば、その果実は枝が違っても同じでなければなりません。同じでないのは宗教も科学もまだまだ発展途上にあるからではないでしょうか。宗教も科学も真理を究明することを究極の命題としていることを考えれば、なおさら確信がもてるところです。宗教が理性や感情そして心理に重きをおいているのに対して、科学は知性に重きをおいている。そして芸術は感性に重きをおいている。宗教も科学も芸術も意識の重心が違うだけでそこに優劣はないと思います。宗教は神秘世界を対象としますが、科学は現実世界を対象としています。    昔、火星という惑星は神秘世界そのものでしたが、現在、完全ではないにしても神秘のベールがはがされ現実世界の一部になりつつあります。宗教が対象としている神秘世界に探査機を飛ばすわけにはまいりませんが、遠い未来、神秘のベールが少しずつはがされる日が来るかもしれません。宗教と科学は少しずつ歩み寄るべき時が来ているのかもしれません。特に宗教は知的傾向を強めるべきのように思えます。信仰者の人としての尊厳を毀損したり、心の自由に干渉するようなことは本来の宗教の在り方から逸脱していると思います。また科学のように必要に応じて変化を受け入れる柔軟性も求められるところです。    科学もその成果を人のため社会のために活用できないので

第10章 因果律、原因と結果の法則

 自然現象や人間活動など私たちが目にすることのできるあらゆる現象や事象の背景には原因となるものがかならず存在します。これを原因と結果の法則、因果律と呼びます。具体的に自然災害の例をとりまして、この因果律について観察してみたいと思います。自然災害は自然現象に人為的要素が関係することで発生します。自然現象そのものは本来、人の活動とは無関係で在ることは自明の理ですが、その自然現象が人間社会に人的、物的被害を及ぼした時、人はこれを「現象」ではなく「災害」と呼ぶことになります。    この自然現象と人間社会の間にある因果律(原因と結果の法則)を観察してみますと、経済的に豊かで、教育レベルも高く、情報化が進んだ社会では、低い社会に比べ防災意識が高く、日頃から防災にそなえた法整備や社会インフラの蓄積に努力している傾向が見られます。結果として文明度の高い社会は低い社会に比べ自然現象の影響を負の要因として受けるレベルが必然的に低下していることが理解できるところです。この「社会」を「時代」に置き換えても同じことが言えます。 比喩的な表現になりますが自然現象には自然を支配する因果律が働き、人間社会には社会を支配する因果律が働いていると言っても良いでしょう。    では次に人、ひとりひとりと社会の間の因果律を観察してみますと、人には各々生活事情や経歴というものがありますし、自由意思もあります。人は社会との関わりの中で自分の人生の多くを形成してゆく存在であることを考えれば、過去から現在にいたる社会との関わり方が原因となって現在の生活が存在することがわかります。これらも当然、因果律(原因と結果の法則)の支配を受けてます。もちろん当該の自然災害発生とは無関係にです。    以上観察してみますと各段階(自然、社会、時代、個人)での因果律が時間的、空間的に重なり合うことで自然災害が発生していることが理解できるところです。この因果律の重なり合いは決して偶然なものではありません。何故なら重なり合いも当然現象の一つである以上、因果律(原因と結果の法則)の働きによるものになるからです。 私たちが眼前で起きている現象や事象を見て、「これは偶然である」とか、あるいは「運命的である」とか呼ぶのは、あくまで見た目の印象を感情で表現しているに過ぎません。感情と現実を混同すべきではありません。これを迷い、迷

第9章 自力と他力、「生かす力」と「生かされる力」

 この章では自力と他力について考えてみたいと思います。私たち人は父母から命を授かり、人として育まれます。別の観点から見れば私たち人は社会という環境の中で育まれ生きてゆく存在でもあります。その社会には文化とか文明と呼ばれている成果が存在します。そして、その成果を家族や教育を通して、あるいは直接、社会から授かる機会が与えられます。 別の観点から見てみますと、私たち人には身体があります。その身体には命が宿っています。この身体も命も人には造れません。全ては自然により創造されたものです。その意味で人智を超えた創造物と呼んでも過言ではないかと思います。故に、この身体も命も自然から授かったものであることが理解できるわけです。    更に観察してみますと自然界から授けられたものの中には酸素と水があります。酸素と水がなければ、私たち人は一秒たりとも生きてゆくことができません。人の身体の60%〜70%は水でできています。酸素と水に生かされているわけです。食物も自然から採取したり、あるいは自然の力を借りながら作ったりしたものです。この食物がなければ人の寿命は残りわずか数週間程度となります。    私たちの日常生活を見てみましても、衣食住を始めあらゆるものが、他の存在から与えられたものであることがわかります。他の存在とは自分以外の存在つまり、自然とか社会とか他人、先人と呼んでいる人々のことです。あらゆるものとはもちろん環境や物やサービスだけではありません。言葉や文字も含みます。知識もあります。道徳もあります。芸術もあります。何でもそうです。    この様に見てゆきますと私たち人とは自分で生きている存在ではなく、生かされている存在であることが明らかになってきます。それでは、人とは生かされる力(他力)により、生きている存在なのであれば、この「生かされる力」だけが充分あれば人も社会も成り立ってゆくのかと言えばそうもゆきません。生かされる力は与える側(他の存在)から見れば生かす力(自力)だからです。この「生かす力」と「生かされる力」、つまり「自力」と「他力」の両方がなければ人も社会も成り立ちません。成り立たないとは存在できないという意味です。    では次にこの「生かす力」、「自力」について考えてみたいと思います。自力とはつまり自分以外の存在から見れば他力なわけですが、この自力とは

第8章 人の身体を考える

 人の身体には高い表現能力がそなわっています。声帯と舌で様々な言葉を話したり、歌うことができます。顔の表情はとても豊かです。優れた運動能力もそなえています。スポーツ、舞踊、演劇、武芸、作法など多様な動作表現ができます。器用な指があります。楽器を奏で、絵筆や様々な道具を使い芸術作品を創ります。工芸品を造ります。本を書きます。設計図を描きます。巨大な船や飛行機そしてロケットを作ります。様々な観測機器を作り操作します。そして自然や宇宙を観察します。この類い希と言える高い表現性をそなえた身体があるお陰で、人は高度な文化や文明を形あるものとして、この現実世界に目に見える形で実現することができるわけです。こう見てゆくと人の身体は究極の文明の利器と言えるのかもしれません。    人の身体が豊かな表現の可能性を私たちの人生に約束してくれていることがこれで良くわかってきます。豊かな表現の可能性はそのまま豊かな人生の可能性となり、そして豊かな表現は豊かな体験へとつながります。人が生きてゆくうえで表現と体験が一番大事であると思えば心の豊かさと身体の表現性が人の幸福の条件になることも理解できてきます。然るに自分の身体を粗末に扱ったり、傷つけたりすることはもとより、他人(ひと)の心や身体を傷つけるようなことも人の行いとして最低限やってはいけないことであることもまた理解できてきます。人は自分に対しても他人に対しても責任を負う存在であるのかもしれません。同様に命あるもの全てと環境に対しても責任を負っているのかもしれません。そして責任を負うからこそ人は豊かな体験を必要とする存在と言えてくるのかもしれません。

第7章 信仰と合理性

 まず、信仰とは何かについて考えてゆきたいと思います。一般に「信仰」という語で連想されてくるものは宗教ですが、広く解釈すればそうでもないことが良く分かります。信仰の語義をあらためて広く解釈すれば「自己の認識を超えたところの存在を信じる」という理解が最も適当ではないかと思います。この「認識を超えたところの存在」とは宗教信仰の対象となっているもの以外では、例えば、未知の自然現象が対象であれば科学になりますし、倫理が対象であれば武士道や儒教などになります。思想であれば社会主義や民主主義などを土台にした政治活動となりますし、国家や民族であれば国家主義や民族主義などの国民感情や民族感情を土台にした政治活動や社会活動、文化活動へとつながります。地球環境であれば自然保護活動というかたちで現れることもあります。    この様に信仰と一口に言っても対象は多様なものになるわけです。では、次に「自己の認識を超える」とは何なのかですが、これが単に自分の認識レベルが低いことに由来するのであれば、それはその人の知性や感性が足りないからだとか、低いからだとかいう理解にもなりますが、それだけでなく例えば科学がかなり高度に発達している現在であっても研究対象となる未知の領域というのは数多く存在するわけです。それらは人の認識を超えた領域でもあるのですが、そこに必ず真理ありと予見すれば何らかの科学が成立するということにもまたなるわけです。 この例の他にも人の認識を超える領域とは多く存在すると言えるのではないでしょうか。    信ずるとはそこに信をおく、つまり理性の働きによりこれは確かに真であり偽ではないと判断するところのことですが、その結果よく解らないが、とにかく信じようという自由意思が働くのがそもそも信仰ではないかと思います。(広い意味での信仰 とは 「理念の創造」とも言えるでしょう) しかし今までの記述だけではこと宗教信仰に関しては説明が不充分であると思いますので、このことについて更に考えてゆきたいと思います。 一般に宗教信仰には神秘体験がともなわないことには、やはり信仰心は充分に働かないのではないかと思います。神秘体験といっても大げさなものではないのですが、例えば死別の悲しみを無事乗り越えることができたとか、その結果、他人の悲しみの感情がよく解るようになり、慈悲の心が持てるようにな

第6章 運命について考える

 「運命」という言葉を他の語に置き換えるとすれば、「不自由」が一番、適当なように思えます。つまり「幸運」とは不自由がもたらす幸福で、「不運」とは不自由がもたらす不幸ということになるわけです。なぜ運命が不自由と同じ意味なのかと言いますと、よく「運命には逆らえない」、「これも運命と思って諦めよ」などとよく言いますが、このように運命という言葉自体、否定的な語、ネガティブな言葉として扱われる例が多くみうけられるからです。 確かに冷静に見てゆけば人とは生まれながらにして不自由な存在であると思います。自由意思による選択の幅はおのずと限られています。生まれる場所も、育つ環境も、生きる時代も社会も自由には選択できません。身体がある以上、様々な不自由がともないます。病気や老いは避けられません。才能に恵まれている人もいればいない人もいます。 この様に見てゆくと人が生きる環境そのものが不自由であるとともに、人そのものもが不自由という語で象徴できるような存在にもみえます。    しかし、ここでもう一度、運命というものについて考え直してゆきたいと思います。そもそも人はなぜ不自由という感覚をもつのか、もつことができるのかというこです。この問いが重要になると思います。それは人が自由意思を高度なレベルで働かすことができるからだと思います。自由意思とは自由な心の働き、自由な精神活動という理解でよいと思いますが、つまり人とは生まれながらにして自由な心の持ち主であるが故に不自由を実感し、自分の裁量や力では扱うのが困難な対象を「運命」と呼んでいるのではないでしょうか。    そうなりますと自由な心の持ち主ほど不自由を実感し、それがさらに、自らの自由意思を働かす機会を拡大しようとする動機づけにもなっているように思えてきます。然るに不自由とは心の成長の源と言うことにもなります。才能のある芸術家ほどかかえる苦悩も多いのかもしれません。それがさらなる創作活動に結びつくことになるわけです。    しかし、これまでの説明でもやはり自分の不運については納得できないものがあると実感されている方も多いと思います。これについて考えてゆきたいと思います。 もともと何を不自由と感じるかは各々違うわけですが、これは不自由という感覚が主観からくるものだからです。人はそれぞれ自分の主観の世界で生きる存在であると既に述べまし

第5章 人の自由性 文明の原動力

 ここでは人の自由について考えてゆきたいと思います。この地球環境上で人間ほど自由に行動している生命体は他に存在しません。植物にはもちろん自由意思などありませんが、動物なども下等になればなるほど自由意思のレベルは低くなってほとんど本能だけで機能本意に行動しているようにみえます。「人間と動物の違いを一つだけ示せ」と言われれば、「それは自由意思の程度にあり」と答えるのも正解の一つと言えましょう。自由意思の程度が人としての存在を示す一つのバロメーターになりうるわけです。 高度な自由意思には必ず責任意識がともなわなければなりません。責任意識とは理性のことですが、理非曲直を認識できる能力が充分ともなわないのであれば自由意思は自ずと制限されるのが自然の摂理であると思います。人間がここまで進化して相当な自由意思を働かすことができるようになった背景にはかならず理性の発達がなければならないはずです。天秤に例えれば右の秤に自由意思、左の秤に理性ということになります。天秤の機能が摂理の役割を現します。    では次に自由意思そのものについて考えてゆきたいと思います。まず自由意思とは何かですが、この場合、意思という語は精神作用とか心の働きと解釈すればよろしいと思います。その自由意思とは自由な心の働きとか自由な精神活動と理解すれば良いでしょう。以前の章で「心の働き」とは即ち理性、知性、感性、感情などの働きのことであると述べさせていただきました。これを総称して個性と呼べるのですが、その「 心の働き」とは具体性のある言葉で言えば認識のことです。認識の程度、即ち認識レベルが自由意思の程度をそのまま意味することになります。故に認識レベルの高い人(心の豊かな人、意識レベルの高い人)ほど「自由意思を行使できる機会」(自由性)が拡大するということになるわけです。    例えば優れた芸術家の表現を観ますと深さとか広がりが感じられます。それは表現者がそなえている自由性そのものを現しているといっても良いでしょう。音楽家は音楽に対する認識がかなり高いレベルにあるわけですから音楽表現に関しては多様で深みのある表現が自由にできるわけです。 文化や文明の発展の原動力にも、この自由性は重要な役割をはたしているはずです。表現の自由性が保障されていることが高度文明社会の最低必要条件であると言っても過言ではないかと思いま

第4章 時間認識、過去も未来も存在しない

 ご承知のとおり暦(太陽暦)は太陽を周回する地球の惑星運動と自転運動をもとにつくられています。時間の単位はその暦をもとにつくられました。 物体が運動する時、必ず時間的経過をたどります。例えば新幹線が東京から大阪まで移動するのには所要の時間を必要とします。暦や時間は地球と呼ぶ天体の運動により生じた時間的経過をもとにつくられているということになります。     運動だけでなく物質の変化にも時間を必要とします。水が氷に変化する時も同じく時間的経過をたどります。私たちが日常、生活したり労働したりする時も当然時間的経過をたどります。このように時間というものは物、物質、空間と同じように客観的に認識できる存在であるわけです。 では次に、私たちの心(意識)の中の時間のあり方について考えてみたいと思います。人は時間的経過を認識する場合、必然的に過去、現在、未来と分類したりしますが、これには少し問題があると思います。なぜなら前述したように時間とは物と同じように現実世界に実在するものです。    しかしあたりまえですが現実世界のどこを見渡しても過去も未来も実在しません。 人は心の中で実在するものとそうでないものとを、混同して扱ってしまっていることがこれでよく理解できます。つまり過去や未来と呼ばれているものはあくまで心象風景の中の景色の一つにすぎないということです。言葉に言及すれば「過去」という語は「記憶」とか「体験内容」と呼ぶ語の置き換えになります。「未来」は「期待」、「予想」、「想像」と呼ぶ語の置き換えです。     タイムマシーンの時間旅行は夢があって楽しいお話ですが、残念ながら実在しない目的地は旅の対象にはなり得ません。では、次に「現在」について考えてゆきたいと思います。一般には「現在」という語は「直覚」を表すと言われています。直覚とは今、この瞬間を感覚、知覚するという解釈でよろしいと思いますが、しかしこれでは時間的経過を認識することはできません。なぜなら経過とは瞬間ではとらえることのできないものだからです。静止画を見ても情報は限られています、それと同じことです。  「現在」とは端的に言えば、私たちの眼前で繰り広げられている「現実世界」そのもののことだと思います。現在進行形の世界、私たち自己が今、在るところの世界です。そこにはもちろん、過去も未来も

第3章 心象風景の中に生きる存在

 この章では「心象風景」の定義を拡大して述べさせていただきますので、予めご理解ください。一般に風景といえば私たちの目に映じる景色のことを呼びますが、心象ということになりますと、それは文字通り心の中の景色を呼んでいることになります。しかし目に映じる景色を正しく解析すれば、網膜という感覚器官を通して脳で景色を見ていることがわかります。大脳の視覚を担当する部分である視覚野に損傷があれば、眼球がいくら正常であっても私たち人間は失明してしまいます。つまり人の目に映る景色とは脳の中で再現された像であるということになります。     私たち人間は景色を見るとき、それは人でも物でもあるいは自然風景でも何でもそうですが色や形だけを単に写実的に見ているわけではありません。例えば「美を鑑賞する」、「美を発見する」などの言い方は良くされますが、これは別に比喩的な物言いではなく、人は自分の目で実際に美を見ているわけです。美とはもちろん感情表現そのものですから、目で感情を見るというのも不思議な感じがしますが実際そうしているわけです。     故に脳の中で再現された像には感覚や感情、知識がともなっていることがわかります。桜の花を見て、「花が咲いているのが見える」(視覚)「花の香りがする」(臭覚)、「美しい」(感情)、「これはソメイヨシノの花である」(知識)となるわけですが、感覚、感情、知識は心の働きでありますので、これは単なる「像」ではなく「心象」、「心象風景」と言い換えた方が適切だと思います。 再び、心象風景の中に何が見えるかを観察してゆきますと、色、形、物の表面の状態など表相(相とはすがたの意)が見えてきます。そして桜の花の例で分かりますように感覚、感情、知識がともないます。視覚以外の感覚、感情、知識は実際見えるものではありませんので、「観る」「観える」という言葉の表現のほうが正しいと思います。心象風景とは見るものでなく観るものであり、見えるものでなく観えるものであるということになるわけです。     普段、人が見ている景色、視界に写る風景が、実は心象風景であり、心の中の景色そのものであるということが、これで理解できてくると思います。心象風景が心の働きをともなった風景であるということは、心の働きとは既に述べさせていただきましたように個性即ち認識能力のことですので、個

第2章 個人的存在から個性的実在へ

 前章の説明から導けることは人間精神の表現である理性、知性、感性というものは認識レベルの問題であるということです。この認識レベルとは具体的には、深いか浅いか、広いか狭いかということなのすが、それらは意識とか心とかの深みと広がりを拡大することに直接通ずるものがあるようにみえます。心を自己の本質と観れば意識(顕在)とはその一部が顕現したもの、つまり自覚されている心、そして認識とは心の作用(心の動き、働き)、精神作用と理解すれば良いと思います。 自己の本質が心ということになりますと、自己という存在は生命現象という事象が顕現したものとも定義できますので、心とは生命現象そのものであると言えることになります。つまり心の有り様も一つの事象であり、生命を司る自然法則の働きによるものであると理解できてくるわけです。推測するに、この生命を司る自然法則とは認識レベルをより深く、より広くする方向で働いていることは確かなようです。  視点を変えまして、理性、知性、感性を総称するとすれば個性という呼び方がよろしいと思います。つまり認識レベルがより深く、より広くなることは、自己をより個性的な実在感のある存在へと導く作用があるということになってくるのではないでしょうか。もとより私たち自己という存在は個別性を持つがゆえに個人的存在ではあります。しかし個性的実在感をともなうかどうかはあくまで個々人の資質の問題ということになってくるのではないでしょうか。  自己実現の程度が幸福の指標ということであれば、個性に深みと広がりを与えることこそ幸福への道程を示すものであるようにみえてきます。すなわち自己を実現するとは個性のレベルの問題であると定義できてくるわけです。  ともすると私たちは人生上の経験内容とか感情がどの程度満たされたか報われたかなどを幸福の指標としてしまう傾向が強いわけなのですが、これらはむしろ個性に実在感を与える触媒としての役割をするものであり、例えてみれば車窓からの流れゆく景色、記憶の中の過ぎ去りし日々のようなもので実体があるようでないようなものだとも言えるのではないでしょうか。  然るに唯物的な思考や経験あるいは本能に由来する感動には自ずと限界があり、おろそかにはできないにしても人生の中心に置くべきほどの価値はないように思えてきます。 直接に個性の実在感を実感したいのであれ

第1章 対象と自己 この関係性の不思議

 対象と対象、対象と自己との間にはかならず、ある種の関係性が存在します。分かりやすいように桜の花の例で説明させていただきますと人は桜の花を観ることで何かを感じます。この感覚が関係性を現します。「桜の花の色はきれいだ」「桜の花の形は美しい」「桜の花が持つ雰囲気は上品である」となります。この感覚表現を更に「何故桜の花をそのように感ずるのか?」と問いますと誰も具体的な言葉にできません。 「相対的に観て美しいから」と答えても「では、何故そう観ると美しいのか?」と何やら禅問答になってしまいます。この様に関係性には感覚では理解できても言葉として説明できないものがあるようです。  ”対象の本質”とは自然法則と同じように唯一無二といえるが、関係性となると多様であります。  対象は一つでもAさんとBさんでは感じ方が違う。両人とも”対象の本質”を同じレベルで理解できてたとしても感覚までは同じにならない。AとBという二つの関係性が存在することになるわけです。 逆に関係性を否定すれば対象も自己も存在しないくらいなことも言える。対象は一つでも自己の数だけ関係性は存在する。例えば10人の建築家に場と条件を示したとします。場と条件が対象になるわけなのですが、建築家との関係性は10あることになるので、結果ここに10の表現が自然的に現れる。まさに表現とは多様であるべきなわけです。  この様に対象との関係性、関係性の多様性に気付いてきますと、逆に多様性の否定が関係性の否定、関係性の否定が自己と対象の否定という、およそ全ての否定の結果へとつながってくることも理解できてくるわけです。すなわち多様性の否定が全ての否定につながる。それは文化、文明、歴史の否定をも含むはずです。 然るに多様性を否定した全体主義的な社会(あるいは集団)はかならず文明的にも衰微してゆく。多様性を尊重する社会とは競合はおろか共生すら難しいだろうと容易に想像できるわけです。これらは歴史を鑑みれば明らかなことであります。  冒頭で感覚が関係性を現すと述べてきましたが、この場合の感覚とは感性と同義ととらえてよいでしょう。感覚とは単純には五感の機能を示すのですから「自己の感性が関係性を現す」あるいは「自己の感性が対象との間に関係性をつくる」と定義した方が分かりやすいわけです。 対象としての物事の本質の理解のためには知性と感性とい