第4章 時間認識、過去も未来も存在しない

 ご承知のとおり暦(太陽暦)は太陽を周回する地球の惑星運動と自転運動をもとにつくられています。時間の単位はその暦をもとにつくられました。 物体が運動する時、必ず時間的経過をたどります。例えば新幹線が東京から大阪まで移動するのには所要の時間を必要とします。暦や時間は地球と呼ぶ天体の運動により生じた時間的経過をもとにつくられているということになります。 

   運動だけでなく物質の変化にも時間を必要とします。水が氷に変化する時も同じく時間的経過をたどります。私たちが日常、生活したり労働したりする時も当然時間的経過をたどります。このように時間というものは物、物質、空間と同じように客観的に認識できる存在であるわけです。 では次に、私たちの心(意識)の中の時間のあり方について考えてみたいと思います。人は時間的経過を認識する場合、必然的に過去、現在、未来と分類したりしますが、これには少し問題があると思います。なぜなら前述したように時間とは物と同じように現実世界に実在するものです。

   しかしあたりまえですが現実世界のどこを見渡しても過去も未来も実在しません。 人は心の中で実在するものとそうでないものとを、混同して扱ってしまっていることがこれでよく理解できます。つまり過去や未来と呼ばれているものはあくまで心象風景の中の景色の一つにすぎないということです。言葉に言及すれば「過去」という語は「記憶」とか「体験内容」と呼ぶ語の置き換えになります。「未来」は「期待」、「予想」、「想像」と呼ぶ語の置き換えです。 

   タイムマシーンの時間旅行は夢があって楽しいお話ですが、残念ながら実在しない目的地は旅の対象にはなり得ません。では、次に「現在」について考えてゆきたいと思います。一般には「現在」という語は「直覚」を表すと言われています。直覚とは今、この瞬間を感覚、知覚するという解釈でよろしいと思いますが、しかしこれでは時間的経過を認識することはできません。なぜなら経過とは瞬間ではとらえることのできないものだからです。静止画を見ても情報は限られています、それと同じことです。

 「現在」とは端的に言えば、私たちの眼前で繰り広げられている「現実世界」そのもののことだと思います。現在進行形の世界、私たち自己が今、在るところの世界です。そこにはもちろん、過去も未来も存在しません。ただ現在あるのみです。前述したように過去も未来も私たちの心の中の景色、つまり心象風景のことです。現実世界はそれとは無関係に存在しています。この現実世界とは私たちが消滅したとしてもそれとは無関係に存在し続ける世界です。 第3章で人とは心象風景の中に生きる存在であると述べさせていただきました。故に人とは現実世界に在りながら心象風景の中に生きている存在であるとも言えてくるわけです。心象風景の中をよく観察しますと今、現在進行しているところの景色、つまり今、視覚しているところの景色と、記憶(過去)と想像(未来)による景色がオーバーラップしているのがわかります。故に記憶と想像は心の景色に時間的奥行きを与えていると言えます。

   心象風景とは主観的世界そのものと言えるものですが、その風景に時間的奥行きを与えることは、ものごとの実相を理解してゆくうえでも大事な役割をしています。主観だけでは偏りがどうしてもでてきます。記憶と想像がものごとを客観的に見るうえで大事な助けになっているわけです。認識レベルを高めるということは記憶の内容を豊かにするとともに想像力を豊かにすることにもつながります。以上のことから心を豊かにするとは認識レベルを高めることと同義であるとも導けてきますので、過去の体験を豊かに生かし、未来を豊かに想像することが人生を豊かに生きることの大切な条件になることが理解できてくるわけです。