第15章 幸福論

 この章では人生の幸福と苦しみにつて考えてみたいと思います。苦しみの感情とは何でしょうか、この鈍く重たい感覚を覚えますと強い不安感や、時には恐怖感さえ感じるようになってきます。この不安感や恐怖感を克服することがきっかけとなって、人は様々な行動を選択することになるわけです。例えば病気の苦しみを克服するために過去から現在に至るまで人々は様々な努力を傾け、多くの成果を上げてきました。同様、多くの人間活動は様々な苦難や困難、不自由を克服することが動機となって始まるようにみえます。そう考えますと苦難は文明の母とも言えてくるのかもしれません。

   苦難に遭遇した時にその人の本当の価値が分かると言いますが、その言葉は真実を表していると思います。その苦難にどう向き合えるかどうかで、その人の心の豊かさとか意識レベルの高さが明らかになってくるからです。人は苦しみの感情が持てるからこそ、心の豊かさと文明の豊かさを享受できる機会が約束されている存在であるのかもしれません。苦しみの感情があるお陰で幸福とは何か、愛とは何か、美とは何かを実感できるとともに創造がもたらす豊かさが何であるかも理解できてくるのではないでしょうか。苦難がなければ真実の豊かさを手に入れることはますます遠くなると思います。

   苦難にともなう苦しみの感情とは各々の主観から生ずるものであり、花や草木のように一つの客観的事実として存在するものではなく純粋に意識上の出来事としてあるわけですが、故に何が苦しみで何が苦しみでないかの判断は一人一人の主観によることになってきます。つまり苦難とはあくまで心の中の主観的事実として存在するわけです。人は誰でも過去の幸福体験がもととなって心の中に自分なりの幸福観を持てていることと思います。この幸福観から遠ざかった感覚が苦しみを初め悲しみ、孤独感など様々な否定的感情になるのではないかと思います。更に豊かな人生体験を積む機会が得られれば、自分の持っている幸福感の幅と深さを拡大することができることと思います。その分、否定的感情に陥るようなことも少なくなってくるのではないでしょうか。

   心を豊かにするとは、即ち意識を広く深くすることを意味してきます。つまり認識という心の視界を広げてゆくことが心を豊かにしてゆくことにつながってくるわけです。心の豊かな人は例え自分が不遇な状況におかれるようなことになったとしても、心の視界が広いだけ、どこかに幸福を見いだしていることと思います。心の視界から見いだせた幸福が例えわずかなものであっても、その体験の積み重ねこそが大切になるのだと思います。確かにかえりみますと私たち人が日常の中で幸福感を実感できるのは些細な出来事からくる例の方がずっと多いような気がいたします。道ばたの名も知らない雑草の花に、今日出会った人の何気ない笑顔や親切に、ささやかな買い物に、澄み切った青空に、時には久々の雨に、夜空の星々に、そのささやかですが一つ一つが幸福の体験であると実感できることが大事になってくるのではないでしょうか。それだけでなく人生の幸福は探せば目の前にいくらでもあります。ただそれに気が付かないでいるがゆえに、幸福を実感できないでいるだけのことのようです。

   例えば、自分の足で何不自由なく歩けることとか、その足が不自由だとしても自分の手を使って何不自由なく食事ができることとか、この当たり前と思っていることも、一旦その不自由を体験すれば幸福そのものであることが実感できることと思います。 また、人はこの社会で育まれ様々な教育や訓練、体験の機会を与えられます。科学や芸術、宗教は多くの豊かな体験と表現の可能性を一人一人の人生に約束してくれています。これも幸福そのものです。

   慈悲の心も苦しみや悲しみの感情から生ずるものですが、自他の境界を超えて幸福感が失われる機会に遭遇した時、わたし達は慈悲の心を自覚することができます。この慈悲とは自分以外の存在に向けられているものです。このことから慈悲とは自他の境界を超えて働く意志であることがわかります。人は慈悲や慈愛の心で他に接することができた時も幸福感を覚えます。人生の中には他にも多くの幸福が存在します。それは一人一人が心を豊かにしてゆくことで次第に発見できてくるものではないでしょうか。そう考えますと、私たち人は幸福になるために自分の人生に多くを望んだり期待する必要はないことになります。何故なら心を豊かにできれば、多くの幸福を手にできることが約束されているからです。

   一番大切なことは感謝できる心を持つことではないでしょうか。人とは皆、生かされている存在なのです。誰一人として一人だけで生きれる人などはいないはずです。この事に気が付くことができれば自分は決して孤独な存在でないことにも気付かれることと思います。心の豊かな人は心の広い人でもあるわけです。その広さとは自他の境界を超えることができるだけの意識の高さのことです。また、心の豊かな人は心の深い人でもありますが、その深さとは愛情の深さのことであり、幸福や美を実感できる感度の深さのことでもあります。心の豊かな人は他の存在の幸福も自分の幸福のように実感できる機会が多いことと思います。

   例え苦しみの思い出の多い人生であっても、それによって、これまで体験した幸福が消えてしまうようなことはありません。苦しみに関係なくあくまで幸福は幸福であるからです。苦しみという感情はその人の心境次第で生じもすれば消えもします。しかし、幸福という感情は心の中に普遍的に存在するものであると思います。私たち人は例えどんな苦難に遭遇したとしても愛と美を感ずる心を完全に失うことはありません。愛と美は幸福の感情そのものです。心の中にある幸福、愛、美と呼ばれる感情から遠ざかった感覚がした時、それを喪失感として感じるのが苦しみや悲しみの感情の始まりですが、喪失といっても自分の心の中にある幸福を実感できなくなっただけのことで消えてしまうことはないわけです。しかし苦しみの感情は幸福が実感できるようになれば次第に消えていってしまいます。

   人は人生を過ごしてゆく中で耐えがたい苦難に遭遇することがしばしばあるかもしれません。人格を踏みにじられるような体験も少なくないはずです。幸福などはるか遠くに行ってしまったような心境は誰でも体験していることと思います。 禅に「自他不二」(じたふに)という言葉があります。桜の花を美しいと感ずる心に、自分とか他人とかの違いはありません。悲しい出来事に対しても同じことが言えると思います。区別のしすぎがかえって苦しむ自分を更に苦しみの中へと追い込んでしまうことも多いのではないでしょうか。 「私は苦しい」、「私は悲しい」、この心の嘆きを「私も苦しい」、「私も悲しい」と心の中で置き換えることができれば、あるいはそこに真実に近い心境が見えてくるかもしれません。苦しいのはけっして自分一人だけではないのですから。

   それは幸福と愛から遠ざかった思いが一時的な孤独感となって現れているだけのことなのです。永遠に続くようなことはないはずです。自分の人生への責任意識である理性の高い人ほど危機に瀕した時、立ちはだかる壁に真向きになろうとして返って苦悩の中に身を沈めてしまうことも多いのかもしれません。この様な心境の中で、理性を保障してくれるのは信仰だと思います。信仰も真理の現れそのものと言えます。各々の自由意思をもとに理性にかなう信仰を選択することができれば、どんな苦しみの中にも幸福と愛と美を発見できる機会が訪れるかもしれません。信仰が希望の光へと導いてくれることを確信したいと思います。