第1章 対象と自己 この関係性の不思議

 対象と対象、対象と自己との間にはかならず、ある種の関係性が存在します。分かりやすいように桜の花の例で説明させていただきますと人は桜の花を観ることで何かを感じます。この感覚が関係性を現します。「桜の花の色はきれいだ」「桜の花の形は美しい」「桜の花が持つ雰囲気は上品である」となります。この感覚表現を更に「何故桜の花をそのように感ずるのか?」と問いますと誰も具体的な言葉にできません。 「相対的に観て美しいから」と答えても「では、何故そう観ると美しいのか?」と何やら禅問答になってしまいます。この様に関係性には感覚では理解できても言葉として説明できないものがあるようです。
 ”対象の本質”とは自然法則と同じように唯一無二といえるが、関係性となると多様であります。  対象は一つでもAさんとBさんでは感じ方が違う。両人とも”対象の本質”を同じレベルで理解できてたとしても感覚までは同じにならない。AとBという二つの関係性が存在することになるわけです。 逆に関係性を否定すれば対象も自己も存在しないくらいなことも言える。対象は一つでも自己の数だけ関係性は存在する。例えば10人の建築家に場と条件を示したとします。場と条件が対象になるわけなのですが、建築家との関係性は10あることになるので、結果ここに10の表現が自然的に現れる。まさに表現とは多様であるべきなわけです。
 この様に対象との関係性、関係性の多様性に気付いてきますと、逆に多様性の否定が関係性の否定、関係性の否定が自己と対象の否定という、およそ全ての否定の結果へとつながってくることも理解できてくるわけです。すなわち多様性の否定が全ての否定につながる。それは文化、文明、歴史の否定をも含むはずです。 然るに多様性を否定した全体主義的な社会(あるいは集団)はかならず文明的にも衰微してゆく。多様性を尊重する社会とは競合はおろか共生すら難しいだろうと容易に想像できるわけです。これらは歴史を鑑みれば明らかなことであります。
 冒頭で感覚が関係性を現すと述べてきましたが、この場合の感覚とは感性と同義ととらえてよいでしょう。感覚とは単純には五感の機能を示すのですから「自己の感性が関係性を現す」あるいは「自己の感性が対象との間に関係性をつくる」と定義した方が分かりやすいわけです。 対象としての物事の本質の理解のためには知性と感性という資質の訓練が大事になってくるはずなのですが、そうなると対象の高度な理解には高度な関係性が必要条件になってきましょう。また知性と感性は互いに影響し合っている。知性を高めれば感性も同じように高まるとは単純にはゆかないでしょうが、より高い関係性を創造するにはやはり知性の働きもあると理解できてくるわけです。
 また感性とは様々な外部的なもの、外部とは自己の外側にあるものという意味ですが(客観世界)、その影響を受けて高まる場合もありましょうし、低められ歪められてしまう場合もありましょう。自己が置かれた環境、時代、文化、社会条件などなど様々ですが、それらが自己の内なる体験を形成してゆく働きとなる。然るに自己とは遺伝的相違はもとより、まさに多様であるべき存在なわけなのですが、故に多様な自己が多様な関係性をつくり、故に多様な表現が生ずると定義できるとも言えてくるのではないでしょうか。