第2章 個人的存在から個性的実在へ

 前章の説明から導けることは人間精神の表現である理性、知性、感性というものは認識レベルの問題であるということです。この認識レベルとは具体的には、深いか浅いか、広いか狭いかということなのすが、それらは意識とか心とかの深みと広がりを拡大することに直接通ずるものがあるようにみえます。心を自己の本質と観れば意識(顕在)とはその一部が顕現したもの、つまり自覚されている心、そして認識とは心の作用(心の動き、働き)、精神作用と理解すれば良いと思います。 自己の本質が心ということになりますと、自己という存在は生命現象という事象が顕現したものとも定義できますので、心とは生命現象そのものであると言えることになります。つまり心の有り様も一つの事象であり、生命を司る自然法則の働きによるものであると理解できてくるわけです。推測するに、この生命を司る自然法則とは認識レベルをより深く、より広くする方向で働いていることは確かなようです。
 視点を変えまして、理性、知性、感性を総称するとすれば個性という呼び方がよろしいと思います。つまり認識レベルがより深く、より広くなることは、自己をより個性的な実在感のある存在へと導く作用があるということになってくるのではないでしょうか。もとより私たち自己という存在は個別性を持つがゆえに個人的存在ではあります。しかし個性的実在感をともなうかどうかはあくまで個々人の資質の問題ということになってくるのではないでしょうか。
 自己実現の程度が幸福の指標ということであれば、個性に深みと広がりを与えることこそ幸福への道程を示すものであるようにみえてきます。すなわち自己を実現するとは個性のレベルの問題であると定義できてくるわけです。
 ともすると私たちは人生上の経験内容とか感情がどの程度満たされたか報われたかなどを幸福の指標としてしまう傾向が強いわけなのですが、これらはむしろ個性に実在感を与える触媒としての役割をするものであり、例えてみれば車窓からの流れゆく景色、記憶の中の過ぎ去りし日々のようなもので実体があるようでないようなものだとも言えるのではないでしょうか。
 然るに唯物的な思考や経験あるいは本能に由来する感動には自ずと限界があり、おろそかにはできないにしても人生の中心に置くべきほどの価値はないように思えてきます。 直接に個性の実在感を実感したいのであれば、巨匠達の足跡をたどればよいと思います。例えば建築家ライト、コルビジェ、芸術家ダビンチ、ミケランジェロ、音楽家シューベルト、ベートーベンなど彼らのもつ個性的実在には重量感すら感じることがあります。
 この力をなんと呼べばよいのでしょう。それは生命の法則がもつ力、その法則から顕現されているところの力、まさに個性という内在された力が芸術という表現媒体を通して外部化されたそのものであるといえるのではないでしょうか。それは今現在もわたし達の心に影響力を放ち続けています。これからも個性的実在には時間を超越した生命力があることが実感できるところです。