第7章 信仰と合理性

 まず、信仰とは何かについて考えてゆきたいと思います。一般に「信仰」という語で連想されてくるものは宗教ですが、広く解釈すればそうでもないことが良く分かります。信仰の語義をあらためて広く解釈すれば「自己の認識を超えたところの存在を信じる」という理解が最も適当ではないかと思います。この「認識を超えたところの存在」とは宗教信仰の対象となっているもの以外では、例えば、未知の自然現象が対象であれば科学になりますし、倫理が対象であれば武士道や儒教などになります。思想であれば社会主義や民主主義などを土台にした政治活動となりますし、国家や民族であれば国家主義や民族主義などの国民感情や民族感情を土台にした政治活動や社会活動、文化活動へとつながります。地球環境であれば自然保護活動というかたちで現れることもあります。

   この様に信仰と一口に言っても対象は多様なものになるわけです。では、次に「自己の認識を超える」とは何なのかですが、これが単に自分の認識レベルが低いことに由来するのであれば、それはその人の知性や感性が足りないからだとか、低いからだとかいう理解にもなりますが、それだけでなく例えば科学がかなり高度に発達している現在であっても研究対象となる未知の領域というのは数多く存在するわけです。それらは人の認識を超えた領域でもあるのですが、そこに必ず真理ありと予見すれば何らかの科学が成立するということにもまたなるわけです。 この例の他にも人の認識を超える領域とは多く存在すると言えるのではないでしょうか。

   信ずるとはそこに信をおく、つまり理性の働きによりこれは確かに真であり偽ではないと判断するところのことですが、その結果よく解らないが、とにかく信じようという自由意思が働くのがそもそも信仰ではないかと思います。(広い意味での信仰 とは 「理念の創造」とも言えるでしょう) しかし今までの記述だけではこと宗教信仰に関しては説明が不充分であると思いますので、このことについて更に考えてゆきたいと思います。 一般に宗教信仰には神秘体験がともなわないことには、やはり信仰心は充分に働かないのではないかと思います。神秘体験といっても大げさなものではないのですが、例えば死別の悲しみを無事乗り越えることができたとか、その結果、他人の悲しみの感情がよく解るようになり、慈悲の心が持てるようになったとか、以前より何か落ち着いた心持ちで日々暮らせるようになったとか、悲しみの感情が深ければ深いほど何かこういうことをありがたく思えてくる人は多いと思います。

   それが例えば、きっと神仏の御加護があったからに違いないというふうにもなるわけです。あるいは不思議な夢などを見て、その体験から目に見えない世界が現実にあるのかもしれないあるに違いないなどと妙に確信してしまうようなこともあるわけです。 そういう心の働きはかならず精神を安定させる作用がともないますので、なおさら確信が深まることにもなるわけです。この例の様に神秘体験というものがやはり宗教信仰にとっては大事な動機になるだろうということが充分に想像できるところです。

   次に合理性について考えてゆきたいと思います。一見すると信仰と合理性には何の関わりもないあるいは相反するものであるという判断も出てきましょうが、合理性が信仰の大きな支えになっている事実をここで見てゆきたいと思います。 一般に合理性といえば法治社会の法的合理性とか経済社会の経済的合理性、学術分野の科学的合理性を連想したりしますが、それだけではありません。

   例えば人が何かを信ずるとは、そこに理性の働きがあるからです。何が真で何が偽であるかを判断する認識、それが理性ですが理性が働いた結果、真と出ればそれは、その人にとっては理にかなう判断であり合理性を備えている対象であるということになるわけです。言い換えれば理性レベルの高い人はそれだけ合理性の高い判断や行動がとれるようになるということになります。 故に信仰の対象も信仰する本人の視点から見ればそれなりに合理性を備わっているということがわかってきます。人は信ずるところに行動するとはまさにこのことだと思います。合理性とは理性にかなうとか真理にそうという理解で良いと思います。

   人生をより合理性の高いものにすることを望むのであれば、真偽を見分ける鑑識眼をそなえる必要がでてきます。この鑑識眼が理性のことですが、高い理性を身につけるには豊かな人生体験が必要になってきます。豊かな人生体験とは豊かな知性(知識的体験内容)と豊かな感性(五感から来る体験内容)を身につけることを意味します。体験内容の豊かな人生が理性を育み、合理性の高い人生への導きとなることがこれで良く理解できるところです。