第6章 運命について考える

 「運命」という言葉を他の語に置き換えるとすれば、「不自由」が一番、適当なように思えます。つまり「幸運」とは不自由がもたらす幸福で、「不運」とは不自由がもたらす不幸ということになるわけです。なぜ運命が不自由と同じ意味なのかと言いますと、よく「運命には逆らえない」、「これも運命と思って諦めよ」などとよく言いますが、このように運命という言葉自体、否定的な語、ネガティブな言葉として扱われる例が多くみうけられるからです。 確かに冷静に見てゆけば人とは生まれながらにして不自由な存在であると思います。自由意思による選択の幅はおのずと限られています。生まれる場所も、育つ環境も、生きる時代も社会も自由には選択できません。身体がある以上、様々な不自由がともないます。病気や老いは避けられません。才能に恵まれている人もいればいない人もいます。 この様に見てゆくと人が生きる環境そのものが不自由であるとともに、人そのものもが不自由という語で象徴できるような存在にもみえます。

   しかし、ここでもう一度、運命というものについて考え直してゆきたいと思います。そもそも人はなぜ不自由という感覚をもつのか、もつことができるのかというこです。この問いが重要になると思います。それは人が自由意思を高度なレベルで働かすことができるからだと思います。自由意思とは自由な心の働き、自由な精神活動という理解でよいと思いますが、つまり人とは生まれながらにして自由な心の持ち主であるが故に不自由を実感し、自分の裁量や力では扱うのが困難な対象を「運命」と呼んでいるのではないでしょうか。

   そうなりますと自由な心の持ち主ほど不自由を実感し、それがさらに、自らの自由意思を働かす機会を拡大しようとする動機づけにもなっているように思えてきます。然るに不自由とは心の成長の源と言うことにもなります。才能のある芸術家ほどかかえる苦悩も多いのかもしれません。それがさらなる創作活動に結びつくことになるわけです。

   しかし、これまでの説明でもやはり自分の不運については納得できないものがあると実感されている方も多いと思います。これについて考えてゆきたいと思います。 もともと何を不自由と感じるかは各々違うわけですが、これは不自由という感覚が主観からくるものだからです。人はそれぞれ自分の主観の世界で生きる存在であると既に述べましたが、主観という自由意思が何が自分にとって不自由でそうでないかを決めていることになります。

   同じ境遇におかれても何が不自由でそうでないかは各々の自由意思次第となります。自由意思の働きにはかならず理性がともないます。理性とは簡単に言えば何が真で何が偽であるかを判断する認識のことですが、理性が自由意思をコントロールしているわけです。 理性のレベルが高ければ何が自分にとって真の不自由で何がそうでないかの判断ができるようになります。心の豊かな人は自分が不幸な境遇におかれたとしても、それほど不運を実感していないのかもしれません。それより災い転じて福となすというように自らの自由意思をプラスの方向に働かそうと努力すると思います。

   人は体験を必要とする存在だと思います。悲しみの体験がなければ、他人(ひと)の悲しみの感情は理解できません。理解できないより理解できるほうが幸せです。いつまでも愚鈍のままではかえって惨めになります。失うものが多い人ほど心を豊かにできる機会が多く訪れるのではないでしょうか。幸せを呼ぶ青い鳥は心の内にあるわけです。