第3章 心象風景の中に生きる存在

 この章では「心象風景」の定義を拡大して述べさせていただきますので、予めご理解ください。一般に風景といえば私たちの目に映じる景色のことを呼びますが、心象ということになりますと、それは文字通り心の中の景色を呼んでいることになります。しかし目に映じる景色を正しく解析すれば、網膜という感覚器官を通して脳で景色を見ていることがわかります。大脳の視覚を担当する部分である視覚野に損傷があれば、眼球がいくら正常であっても私たち人間は失明してしまいます。つまり人の目に映る景色とは脳の中で再現された像であるということになります。 

   私たち人間は景色を見るとき、それは人でも物でもあるいは自然風景でも何でもそうですが色や形だけを単に写実的に見ているわけではありません。例えば「美を鑑賞する」、「美を発見する」などの言い方は良くされますが、これは別に比喩的な物言いではなく、人は自分の目で実際に美を見ているわけです。美とはもちろん感情表現そのものですから、目で感情を見るというのも不思議な感じがしますが実際そうしているわけです。 

   故に脳の中で再現された像には感覚や感情、知識がともなっていることがわかります。桜の花を見て、「花が咲いているのが見える」(視覚)「花の香りがする」(臭覚)、「美しい」(感情)、「これはソメイヨシノの花である」(知識)となるわけですが、感覚、感情、知識は心の働きでありますので、これは単なる「像」ではなく「心象」、「心象風景」と言い換えた方が適切だと思います。 再び、心象風景の中に何が見えるかを観察してゆきますと、色、形、物の表面の状態など表相(相とはすがたの意)が見えてきます。そして桜の花の例で分かりますように感覚、感情、知識がともないます。視覚以外の感覚、感情、知識は実際見えるものではありませんので、「観る」「観える」という言葉の表現のほうが正しいと思います。心象風景とは見るものでなく観るものであり、見えるものでなく観えるものであるということになるわけです。 

   普段、人が見ている景色、視界に写る風景が、実は心象風景であり、心の中の景色そのものであるということが、これで理解できてくると思います。心象風景が心の働きをともなった風景であるということは、心の働きとは既に述べさせていただきましたように個性即ち認識能力のことですので、個々人の個性、認識能力の程度(認識レベル)が各々の心象風景に大きな影響を与えていることが、これで充分理解できるところです。 

   さらに心象風景をよく観察いたしますと目に入る様々な表相(風景、景色)に心の働き(個性)を投影したものであることが分かってきます。即ち自分の個性を投影した景色が心象風景であると定義できてくるわけです。人とは生まれてから死ぬまで自らの心象風景の中で成長し老いを経験してゆく存在である。人生を豊かにするとは心の風景を豊かにすることであると言えてくるわけです。そしてこれもまた、既に述べさせていただいたことですが、個性のレベルが人生の幸福の程度を決定するという意味がこのことで更に深く理解できてくるところです。 心の風景を豊かにするとは、心象風景を自ら創造するということにつながります。つまり幸福とは自ら創造できるもので、他から与えられるものではないということです。私たちは幸福を創造できる世界の住人であるということになります。