第5章 人の自由性 文明の原動力

 ここでは人の自由について考えてゆきたいと思います。この地球環境上で人間ほど自由に行動している生命体は他に存在しません。植物にはもちろん自由意思などありませんが、動物なども下等になればなるほど自由意思のレベルは低くなってほとんど本能だけで機能本意に行動しているようにみえます。「人間と動物の違いを一つだけ示せ」と言われれば、「それは自由意思の程度にあり」と答えるのも正解の一つと言えましょう。自由意思の程度が人としての存在を示す一つのバロメーターになりうるわけです。 高度な自由意思には必ず責任意識がともなわなければなりません。責任意識とは理性のことですが、理非曲直を認識できる能力が充分ともなわないのであれば自由意思は自ずと制限されるのが自然の摂理であると思います。人間がここまで進化して相当な自由意思を働かすことができるようになった背景にはかならず理性の発達がなければならないはずです。天秤に例えれば右の秤に自由意思、左の秤に理性ということになります。天秤の機能が摂理の役割を現します。

   では次に自由意思そのものについて考えてゆきたいと思います。まず自由意思とは何かですが、この場合、意思という語は精神作用とか心の働きと解釈すればよろしいと思います。その自由意思とは自由な心の働きとか自由な精神活動と理解すれば良いでしょう。以前の章で「心の働き」とは即ち理性、知性、感性、感情などの働きのことであると述べさせていただきました。これを総称して個性と呼べるのですが、その「 心の働き」とは具体性のある言葉で言えば認識のことです。認識の程度、即ち認識レベルが自由意思の程度をそのまま意味することになります。故に認識レベルの高い人(心の豊かな人、意識レベルの高い人)ほど「自由意思を行使できる機会」(自由性)が拡大するということになるわけです。

   例えば優れた芸術家の表現を観ますと深さとか広がりが感じられます。それは表現者がそなえている自由性そのものを現しているといっても良いでしょう。音楽家は音楽に対する認識がかなり高いレベルにあるわけですから音楽表現に関しては多様で深みのある表現が自由にできるわけです。 文化や文明の発展の原動力にも、この自由性は重要な役割をはたしているはずです。表現の自由性が保障されていることが高度文明社会の最低必要条件であると言っても過言ではないかと思います。逆に自由性も個々人の多様性も保障されていないような社会は人間社会としての条件を著しく欠いていると判断して良いでしょう。

   次に私達の人生の中での自由性について考えてゆきたいと思います。以前の章で心の豊かな人は表現も豊かであると述べさせていただきましたが、前述の説明でこのことがさらに深く理解できることと思います。言い換えれば心の豊かな人は自由な心の持ち主であるとも言えてくるわけです。 ものごとがよく見えるようになればそれだけ自由性の高い認識や表現ができるようになる。絵画を観ても、音楽を聴いても、映画を観てもあるいは文学に親しんでも狭い見識にとらわれない理解ができるようになる。幅と深みのある理解もできるようになる。それだけでなく、その豊かな感覚的、知覚的体験内容をもとにより自由な発想ができるようになる。それが豊かな表現と創造につながってゆくわけです。

   しかし残念なことに人とは自ら自由性を放棄してしまうようなことも時にはしてしまいます。偏狭な思想にとらわれたり、カルト的な宗教や占いを妄信したり、あるいは疑似科学を過信したりとおよそ非文明的なこれらの所産は人々の自由性を奪うだけでなく心を貧しくし、人としての尊厳すら毀損する対象であると言えると思います。

   それだけでなく物やお金に執着するようなことも同じ行為だと思います。本来これらは必要の用としてあるべきものですが、いつの間にかそれ自体を生きる目的としてしまうようなことは人生を貧しくすることになるのではないでしょうか。 人に生まれながらにして高度な自由意思がそなわっている事実は一つの摂理と理解すべきだと思います。高度な自由意思には理性が必要です。理性が人の自由性を保障するのです。幸福な人生を望まない人はいません。それと同じように自由を望まない人はいないはずです。心の自由を放棄するようなことだけは人の行いとしてすべきことではないと思うわけです。