第11章 宗教と科学

 宗教も科学も、私たち人の精神活動の所産です。花や草木などの自然物のように人と関係なく存在できるものではありません。手で触ることも直に見ることもできません。純粋に意識上の産物だからです。宗教建築も儀式も宗教感情を目に見える形で表現したものですが、宗教そのものではありません。教典もしかりです。その宗教が唱えている教えを文字で表現したものに過ぎません。 科学について言及すれば、その研究成果とされている様々なデーターベースは文字、図表、画像、数式の集まりで、それ以上のものではありません。科学は私たち人の脳の中に実在するものであり、データーベースはあくまでも情報の蓄積と伝達の手段に過ぎません。

   精神活動とは意識の働き、つまり心の働きそのものであると解釈すればよいと思います。一般には宗教と科学とは互いに対立する関係にあるとみられているようですが、同じ人の心という幹から育った枝葉であることが分かれば、その様な見方は偏見であることが理解できるところです。同じ幹から育ったのであれば、その果実は枝が違っても同じでなければなりません。同じでないのは宗教も科学もまだまだ発展途上にあるからではないでしょうか。宗教も科学も真理を究明することを究極の命題としていることを考えれば、なおさら確信がもてるところです。宗教が理性や感情そして心理に重きをおいているのに対して、科学は知性に重きをおいている。そして芸術は感性に重きをおいている。宗教も科学も芸術も意識の重心が違うだけでそこに優劣はないと思います。宗教は神秘世界を対象としますが、科学は現実世界を対象としています。

   昔、火星という惑星は神秘世界そのものでしたが、現在、完全ではないにしても神秘のベールがはがされ現実世界の一部になりつつあります。宗教が対象としている神秘世界に探査機を飛ばすわけにはまいりませんが、遠い未来、神秘のベールが少しずつはがされる日が来るかもしれません。宗教と科学は少しずつ歩み寄るべき時が来ているのかもしれません。特に宗教は知的傾向を強めるべきのように思えます。信仰者の人としての尊厳を毀損したり、心の自由に干渉するようなことは本来の宗教の在り方から逸脱していると思います。また科学のように必要に応じて変化を受け入れる柔軟性も求められるところです。

   科学もその成果を人のため社会のために活用できないのであれば、もたらされるのは弊害ばかりとなります。もっともこれは科学のと言うよりは科学者の理性の問題と言うべきでしょう。その意味で科学研究に携わる人々は宗教が説くところの慈悲、慈愛の心を必要としているように思えます。(もちろん科学者だけではありませんが)知性だけでは英知は得られません。傲慢はやはり信仰があって少しずつ解消されてゆくものなのかもしれません。 ご承知のとおり本来、宗教も科学も人の幸福のためにあるべきもののはずですし、そうあらねばなりません。私たちが真理と呼んでいる摂理に背くようでは最早それは宗教でも科学でもないと思います。人の能力に限界があるように、その精神活動の所産である宗教と科学にも限界があると思います。然しその限界には到達することは永遠にないかもしれません。真理はどこまでも深いからです。