第13章 神秘世界

神秘世界について考える(その1)

 神秘世界とは、具体的には人の認識を超えた世界、人智の及ばない世界と理解すればよいと思います。それが現在の科学技術レベルでは到達不可能な世界を意味しているのであれば、神秘世界も現実世界の一部であることには変わりなく、神秘か現実かはあくまで人の主観の問題になると思います。つまり心の中の印象、その印象にともなう感情の問題になるわけです。「神秘」という言葉は本来、感情表現そのものであると思います。「不思議」、「感動」、「畏怖」などこれらの印象にともなう感情の総体が神秘という言葉になるわけで、特に畏怖感情は宗教信仰の主たる動機となり、感情面において宗教がよって立つところの礎となるものだと思います。

   ここで神秘世界と呼んでいる対象はいまだ未踏の真理がある領域のことであると解釈すればよいと思います。はたして、私たち人が現在、神秘であると認識する領域の全てが遠い未来、科学の力により明らかにされる日が来るのでしょうか。それは不可能なように思えます。何故なら、科学は観察する対象の全てを言語、あるいは数式を用いて記述することで成立するものだからです。神秘世界とはこの現実世界と同様、言語や数式だけでは表現不可能なものも広く含むはずですから、科学の力のみでは解明することはできないと思います。 例えば芸術の領域である音楽や美術を言語や数式に置き換えることができるでしょうか、不可能であるとともに全く無意味と言えましょう。人の感情や感覚もしかりです。人の心自体も言語で記述するには限界があると思います。何故なら、その心の働きが言語では表現不可能な感情や感覚そのものであり、芸術を創造する働きそのものであるからです。

   宗教も同じことが言えます。宗教は知的方面では哲学によるところが大きいと思いますが、それだけでは宗教とは呼べません。やはり畏怖感情をともなう神秘体験などに象徴される心理的方面がとても大事になってくるはずです。科学がよって立つところの知性とは言語を用いることにより、観察する対象を分別し記憶する心の働きのことです。具体的に言えば対象を観察し分析し評価したうえで知識として記憶する働きをするわけです。そうであれば言語で表現不可能な領域は科学の対象にはなり得ないことがわかります。

   これまで述べさせていただいたことから、神秘世界にあるところの真理を解明するためには、知性だけでなく、感性とか理性などをかなり高いレベルで働かすことができなければならないことが分かってきます。 そうなりますと真理を解明することとは、極めて個人的な探求行為になるかと思います。何故ならレベルの高い心の働き、つまり高い意識レベルとは個々人の心の豊かさの程度そのものを現すからです。その程度の如何が探求の成否を左右することになるわけです。

    過去の科学研究の成果を見てみましても、その多くは科学者一人一人の個人的体験と創意工夫の努力の結果であることがわかります。科学研究による成果は言語や数式により記述し、広く伝達することができますし、そのまま知的財産として多くの人々の間で共有することも比較的容易にできます。しかし真理は言語のみでは表現が不可能である以上、この様なことは望めません。

   真理を解明するためには、科学だけでなく、宗教や芸術など私たち人が手にすることができるおよそ全ての精神活動の所産を総動員し融合する必要がでてきます。しかも、これを全て限られた人生の個人的体験の中で実現しなければなりません。しかし、よく考えれば、私たち人は何も神秘世界を解明するためにこの世界に生まれてきたわけではありません。ただ言えることは、「人は幸福を求めるがゆえに真理を必要とする」ということです。つまり私たち人にとって真理とは解明する対象ではなく、幸福になるために必要とする対象であるということになると思います。

   これまでの論から言えば、レオナルド・ダ・ビンチもアインシュタインも、また歴史に名を残す聖職者も影が薄くなるような、それこそ科学も、芸術も、宗教も極めている大天才でもない限り真理を悟ることは永遠に不可能であることになってしまいます。はたしてそうなのでしょうか。どうも違うような気がいたします。どうやらいつのまにか道を外れてしまったようです。次の段でもう一度、神秘世界について考えてみなければならなくなってしまいました。


神秘世界について考える(その2)

 人生の答はあらかじめ用意されているのかもしれません。ただ私たちはそれが目の前にあることを悟れない(自覚できない)でいるだけなのかもしれません。 科学も芸術も宗教も、本来、人が幸福を求めるがゆえの精神活動の所産であることを考えれば、人が幸福を求めるがゆえに科学も芸術も宗教も存在すると言えてくるのではないでしょうか。そこに真実があるような気がいたします。科学が、芸術が、そして宗教が人生に豊かな体験と表現の機会を約束してくれている。これが一番大事になってくるのだと思います。

   いつの日かこの自然界の究極の真理を解明できるかどうかも、宇宙誕生の謎も、天国の世界の風景も、それはそれで魅力のあるお話ですが、一人一人、興味のあるところをお楽しみとしてとっておけばよいだけのことだと思います。 以前の章で人とは現実世界に生きながら、心の中の主観世界に生きる存在であると述べさせていただきましたが、神秘世界にある真理の究明が個々人の心の豊かさに深く関わる課題であるとみれば、神秘世界とは主観世界に存在する純粋に意識上の対象であるのかもしれません。そう考えますと神秘世界とは花や草木などの自然物のように人の意識とは無関係に在るものではないことになります。

   つまり神秘世界とは一人一人の心の中にある風景そのものであるということになります。そうなりますと真理究明とは自分の心の究明、自己究明に他ならないと言うことになると思います。真理は何も宇宙の彼方や未来の彼方にあったのでなく、私たちの心の内にあったというわけです。言い換えれば私たちの心が真理そのものである。それが人生の答である。その心を悟る(自覚する)ことこそが人生の命題である。その悟りの程度が心の豊かさを現すわけです。悟るとか自覚するとかの言葉の意味は知識として理解するというだけでなく、感覚的に理解することを含みます。つまり真理を悟るとは言葉にならない感覚的なものを含めて自覚することを意味するわけです。日常的な言葉を用いれば実感するがこれにあたると思います。

  「心とは何か、人とは何か、自然とは何か」と悟ろうとする意志が、科学と芸術と宗教を創造したと言えるのではないでしょうか。どうやら道を外れた原因は精神活動の所産であるはずの科学、芸術、宗教の成果を真理と見なしてしまったところにあったようです。真理の成果が科学、芸術、宗教であったのです。