第9章 自力と他力、「生かす力」と「生かされる力」

 この章では自力と他力について考えてみたいと思います。私たち人は父母から命を授かり、人として育まれます。別の観点から見れば私たち人は社会という環境の中で育まれ生きてゆく存在でもあります。その社会には文化とか文明と呼ばれている成果が存在します。そして、その成果を家族や教育を通して、あるいは直接、社会から授かる機会が与えられます。 別の観点から見てみますと、私たち人には身体があります。その身体には命が宿っています。この身体も命も人には造れません。全ては自然により創造されたものです。その意味で人智を超えた創造物と呼んでも過言ではないかと思います。故に、この身体も命も自然から授かったものであることが理解できるわけです。

   更に観察してみますと自然界から授けられたものの中には酸素と水があります。酸素と水がなければ、私たち人は一秒たりとも生きてゆくことができません。人の身体の60%〜70%は水でできています。酸素と水に生かされているわけです。食物も自然から採取したり、あるいは自然の力を借りながら作ったりしたものです。この食物がなければ人の寿命は残りわずか数週間程度となります。

   私たちの日常生活を見てみましても、衣食住を始めあらゆるものが、他の存在から与えられたものであることがわかります。他の存在とは自分以外の存在つまり、自然とか社会とか他人、先人と呼んでいる人々のことです。あらゆるものとはもちろん環境や物やサービスだけではありません。言葉や文字も含みます。知識もあります。道徳もあります。芸術もあります。何でもそうです。

   この様に見てゆきますと私たち人とは自分で生きている存在ではなく、生かされている存在であることが明らかになってきます。それでは、人とは生かされる力(他力)により、生きている存在なのであれば、この「生かされる力」だけが充分あれば人も社会も成り立ってゆくのかと言えばそうもゆきません。生かされる力は与える側(他の存在)から見れば生かす力(自力)だからです。この「生かす力」と「生かされる力」、つまり「自力」と「他力」の両方がなければ人も社会も成り立ちません。成り立たないとは存在できないという意味です。

   では次にこの「生かす力」、「自力」について考えてみたいと思います。自力とはつまり自分以外の存在から見れば他力なわけですが、この自力とは具体的に言えば、その人の行動そのもののことです。それは「自己表現」と言えるものでもあります。人は自分の持っている主観世界の表現者であり、日頃の行動も、その主観が主たる動機になっていることを見れば、主観世界の表現にともなう行動とは、自己表現そのもののことであることが理解できてきます。

   生活する、学習する、働く、活動する、全て自己表現の内に入ります。即ちこれが全て自力です。自己表現とは表現者であるその人が、今までの自分の人生の中で得た様々な体験を更に自分なりに創意工夫し、新たな表現や行動へと結びつけることで確実に自分の力にしてゆく、その過程だと思います。この自分の力とは個性(一人一人に備わる固有の認識能力)のことです。然るに個性の豊かさとはその人固有の体験と行動と表現の豊かさそのものを現わすことにもなると思います。

   それ故に豊かな体験が豊かな表現につながってゆく。豊かな自己表現のできる人は豊かな人生体験の持ち主であるとも言えてくるわけです。そして表現したことが、あるいはその表現という行為そのものが、また新たな体験となって表現者自身にフィードバックし新たな力(新たな個性)として自分に加わってくるわけです。

   逆に創意も工夫も充分できないとなれば、人生体験を充分生かしていないことになります。今まで授かった生かされる力(他力)を生かす力(自力)へと充分に発揮することに至っていない。努力が足りない。つまり創意なり工夫に労することを怠っていることになるわけです。

   本人がどの程度自覚しているかどうかは別にしても、豊かな自己表現のできる人は他の存在から見れば豊かな他を生かす力(他力)の持ち主であることになります。そうであるということは豊かな人生体験ができる機会が多い社会ほど、豊かな表現者、他を生かす力の多い社会ということになってくると思います。それは文化や文明の発展にとっても欠かせない条件です。

   仏教に「自利利他」という言葉があります。自利と利他ではありません。自利利他で一つの意味を現します。自利即ち利他、自利は利他に通ずるということです。自分のためと思って努力していたことが、知らず知らずに社会や他人のためになっている。そう考えますと自分を大切にすることが社会や他人を大切にすることにもつながっていることが理解できてくるわけです。